そねたくのThink Hack

日常生活に役立つ考え方と哲学に特化したニッチなさっちなブログ

時間のムダは「もうやめよう」と思ってしまう古代の時間哲学

 

f:id:sonetaku:20171013115745j:plain

時間の無駄は「もうやめよう」と思える古代の時間哲学

 今回は、哲学者セネカを題材に取り上げます。

セネカは、かの有名な古代ローマ帝国第5代ローマ皇帝

ネロの幼少期に家庭教師を務め、治世初期はブレーンとして

国政に携わっていた人物です。セネカ

著書『生の短さについて』の中で、

生は消費すれば短いが、活用すれば長いと説いています。

今回は、活用できていない事例を引用し、

現代の私たちに活かせる知恵をみなさんとシェアしたいと思います。

 

わかりやすくまず無駄と有効の対比

f:id:sonetaku:20171013115815j:plain

 われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、

それが真相なのだ。莫大な王家の財といえども、

悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、

どれほど約しい財といえども、善き管財人の手に託されれば、

使い方次第で増えるように、われわれの生も、

それを整然と斉える者には大きく広がるものなのである。

 このように時間をお金にたとえることは紀元前から

あったんですね。これは、哲学がやはり本質でものごとを

語っているから卑近な例ですね。

 続けて時間の貴重さと無駄遣いを対比をご紹介します。

 人は、誰か他人が自分の地所を占領しようとすれば、

それを許さず、境界をめぐっていささかでも諍いが生じれば、

石や武器に訴えてでも自分の地所を守ろうとするものである。

 ところが、自分の生となると、他人の侵入を許し、

それどころか、自分の生の所有者となるかもしれない者を

みずから招き入れさえする。

 自分の金を他人に分けてやりたいと望む人間など、

どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、

誰も彼もが、何と多くの人に分け与えてやることであろう。 

 ここでは強い口調ですが、周りの人のため、他人のために

何かをやることを全否定しているわけではありません。

そこに自分の意志、考え考慮はあるかと問うているんです。

気づいて「自分の行動を振りかえよ」と言っているんです。

自分の生とは何か?自分の生を生きたいと感じたら

それで十分です。前に進んでいます。


愚痴も時間のムダ

f:id:sonetaku:20171013115835j:plain

 理不尽きわまりない憤慨を口にする者がいる。

自分が目通りを望んでいるのに忙し過ぎて時間を

割いてくれないと言って、目上の者の高慢さに

不満を漏らすのである。誰にせよ、自分自身のために

時間を割きもせずに、厚顔にも、他人の傲慢さについて

愚痴をこぼせるものであろうか。しかも、

君が何者であるにせよ、彼は、なるほど高慢な

顔つきではあれ、かつて君に目をかけ、

ありがたくも君の言葉に耳を傾け、

君をそばに迎え入れてくれた人なのである。

 

 君はといえば、平気で内なる自己に目を向けもせず、

その言葉に耳を傾けもしなかった人間である。

だから、君がそうした義務を他人の誰かに

押しつけてもよい理由はない。何より、

君がその義務を果たそうとするとき、

他人と共にいたいという願望からそうするわけではなく、

君自身が君自身と共にいられないために

そうするだけのことなのだから。

 会社の上司のせいという部分もあるが、まずは自分。

自分が義務を常に果たしていると言えないにも関わらず

人のことをとやかく言っている時間は無駄な時間です。

たとえば、SNSや芸能のことでとやかくああだこうだ

つらつらしゃべるより自分のことに時間を使ったほうが

いいというイメージです。

上司や先輩や友人や周囲の人が目にかけてくれたかは

さておき、じゃあ自分は他人に時間を割いているのか、

そうでないなら「同じじゃないか、文句言えないよ」

と言ってくれています。

 

 加えて、人のためにやろうとか自分の義務を

果たそうとした気持ちでもなく、

人と繋がりたいという気持ちからではなく、

ただ何となくやったことは自分が何をしたいのか

自分の時間の使い方が分からないからだとも言っています。

さらにここで、「忙しい忙しい」と言っているだけで

実は何もしていない人は昔からいた例をご紹介します。

 多くの手間暇のかかる快楽にとりつかれている者たちは

閑暇の人ではないということだ。実際、

今やローマ人の中にも大勢いる、役に立たない

文学研究に魅せられた人たちが、あくせくしながら

実は何もしていないという事実を疑う者は

一人もいないであろう。 

閑暇の人:暇な人という意味だが、ここでは時間を 単に消費するのではなく、

     自分の時間を有効に使っている人という意味になる。

 

たしかに、一理あります。しかし、それが

とことん楽しめているのであれば十分幸せだと思います。

ただ、文学研究を盾にとり、さぞやっていますという

態度であればその通りだと思います。その点を指摘して、

あくせくして実は何もやっていないという言葉に

つながるんだと思います。これは何も研究者だけでなく、

私たちにも当てはまります。「大変だ、忙しい」と言って、

結果に結びついていないことをやっていることは、

それは何もしていないことと同じだと改めて気づかされました。

 

忙しいとバタバタしていると、どうなるか?

これは痛いところをついてきます。


そねたく思考・結論こうなる

f:id:sonetaku:20171013115903j:plain

実際、どうであろう、港から出た途端に嵐に遭い、

あちこち翻弄された挙句、吹きすさぶ風が

四方八方から代わる代わる吹きつけて、

円を描くように同じところをぐるぐる弄ばれ続けた者が

長い航海をしたなどと考えられようか。

むろん、彼は長いあいだ航海したのではなく、

長いあいだ翻弄されたにすぎないのである。

 

切ない。けど、刺さった。

これが私の最初に感じたところです。

大海原を航海したのではなく、

実は港近くで翻弄されていただけなんて、

なるほどそうだと思わざるを得ませんでした。いい気づきになりました。

皆さんはどうですか?

参照 『生の短さについて』他二篇 セネカ著 大西英文訳 岩波文庫 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)